京都のザビエル
『聖フランシスコ・ザビエル書翰抄』(下)
岩波文庫
「 都までに二ヶ月を要し、その間種々様々の危険に遭遇した。
何しろ私達が通過しなければならない地域には、戦争があった
からである。都地方のひどい寒さや、到る処に旅人を襲う盗賊
の群れのことなどは、今更語ろうとも思わない。
都には数日間ゐただけである。私達は国王に謁して、日本で
信仰教義を説く許可を得ようと思ったのである。ところが私達は、
国王に謁することができなかった。
・・・・・・・
都は曾て大きな都会であったけれども、今日では、打ち続いた
戦乱の結果、その大部分が破壊されてゐる。昔はここに十八万戸
の家が櫛比してゐたといふ。私は都を構成してゐる全体の大きさ
から見て、如何にもありさうなことだと考へた。今でもなほ私には、
十万戸以上の家が並んでゐるやうに思はれるのに、それでゐて、
ひどく破壊せられ、且つ灰燼に帰してゐるのである。 」
この本は、有名なフランシスコ・ザビエルの手紙を集めたものです。
宣教師という立場ゆえの多少の偏りはあるかもしれませんが、
当時の日本の様子がうかがえて、大変興味深い本です。
当時の日本の宗教について、面白い記述があります。
「互に異なる教義を持った宗派が九つある。男も女も、自分等の最も
要求する宗派を、その好みに応じて選んでゐる。他の宗派へ走った
からと言って、これに圧迫を加へるやうな日本人は一人もゐない。
従って一家族の中、主人は此の宗旨に属し、主婦はあの宗旨を
奉じ、子供までがそれぞれにまた他の宗派に帰依してゐるやうな
家庭がある。日本人にとっては、これは極めて当然のことで、各人は、
自分の好む宗教団体を選ぶことが全く自由だからである。それでも
時として、軋轢や競り合ひなどが台頭する。所詮は、或る一つの宗旨
が優れてゐるのだと主張する者が現れて来るからであって、時には
こんな理由から、武力を動かすことすらある。」
争うことはあったにせよ、宗教の自由があったという日本のイメージ
を興味深く思います。
フランシスコ・ザビエル
1506年 スペインのナバラ地方に生まれる。
1525年 パリ大学入学
1534年 イグナティウス・ロヨラらとともに、7人で「モンマルトルの誓い」
イエズス会が始まる。
1541年 リスボンを出発。
モザンビークを経て、インドのゴアへ。その後、マラッカやモルッカ
を経て、鹿児島出身のヤジローに会って、日本に向かう。
1549年 ザビエル、鹿児島に上陸。
→ 平戸 → 山口 → 岩国 → 堺 → 京都 →山口
この頃、京都では、三好長慶が仕えていた細川晴元を裏切り、
細川晴元と将軍・足利義輝を追放。三好政権が誕生した。
ザビエルが訪れた京都はそのような戦乱の合間であった。
1551年 山口 → 豊後(大分) → インドのゴア
ザビエルが去った後、ザビエルに布教許可を与えた大内義隆が、
守護代の陶晴賢の謀反によって自害している。
1552年 中国入国を目指して、上川島で滞在中に病死。(46歳)
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